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歴史上の実在したかっこいい作戦名をまとめました。

歴史上の実在したかっこいい作戦名をまとめました。

今回は、歴史上で計画および実施された各国の軍事作戦をピックアップしました。簡単な、作戦立案の経緯や経過、概要も解説しています。

それでは、無駄にかっこいい作戦の数々をお楽しみください!

キャサリン作戦

”キャサリン”とは英語圏の女性の名前です。1939年に計画されたイギリス軍によるバルト海での攻撃作戦名にされました。しかし、本作戦は当時の首相ウィンストン・チャーチルによって立案されましたが、海軍参謀からの作戦リスクの提言により中止となりました。

クロムウェル作戦

”クロムウェル”は17世紀にイギリスで清教徒革命を指揮した軍人・政治の名前です。ドイツ軍のイギリス本土進攻をを警報するイギリス軍内の緊急信号として使われた作戦名でした。

イギリス軍は、大戦中に非常事態信号をいくつか定めていました。これは優先順位を定めて最も緊急な事態を素早く的確に伝える物として扱われました。

なので、この作戦名は暗号化されずに発信される予定になっており「ドイツ軍によるイギリス本土進攻直前」を意味する作戦名として扱われました。

アッティラ作戦

”アッティラ”とは5世紀にフン族が築いたフン帝国の皇帝の名前です。第二次大戦時のドイツ軍がフランスの非占領地区に対する進駐する際の作戦名でした。

フン族がヨーロッパ地区に攻め入った由来を作戦内容に照らし合せて採用されました。

ギーゼラ作戦

”ギーゼラ”とはドイツ語の女性の名前です。第二次世界大戦時にドイツ軍がスペインおよびポルトガルへ進行する仮計画を立て、その際に女性をおとす意味合いから女性名”ギーゼラ”を作戦名に据えました。

この作戦はスペインとポルトガルと良好な関係を築けていたことと、兵力を分散させなければいけなくなるデメリットから実行されませんでした。

ユノー作戦

“ユノー”はローマ神話の女神で、主神ユビテルの妻の名前です。1940年6月に実施された、ドイツ海軍のナルヴィク支援作戦で、連合軍の逆上陸作戦により苦戦を強いられていたノルウェー北部の要塞を救援するために巡洋艦が出撃しました。

イギリス海軍の空母グローリアスを砲撃戦で撃沈するという珍しい海戦が発生しました。

エリエール作戦

“エリエール”とは風の妖精の名前です。イギリス軍による、フランスからの撤退作戦です。

フランス軍が脱落した状態で戦闘を進めることが不可能と考え、フランスの各地からイギリス本土に向けての撤退作戦を実行しました。

シェルブールから3万6000人、サンマロから2万人以上のカナダ軍、ブレストから3万人、サンなぜーるから5万7000人、その他も合わせると16万3000人以上が撤退に成功しました。

後述しますダンケルク撤退の時のように、ドイツ軍が間近に迫っているわけではないものの、これだけの兵力が無事撤退しえたのは奇跡に近いと評価されています。

フェリークス作戦

“フェリークス”とは”ドイツの男性の名前”を意味しています。1940年末に計画されたジブラルタル占領作戦です。

ジブラルタルはイベリア半島の最南端に位置する都市で、18世紀からスペイン継承戦争の際に、イギリスがスペインから割譲を受けました。本作戦を拡大させたイザベラ作戦が計画される前段階の作戦でした。

イザベラ作戦

“イザベラ”とは”ドイツの女性の名前”を意味しています。ジブラルタル占領作戦・フェリークス作戦の拡大版でイギリス軍要塞ジブラルタルを攻略する計画でした。

イベリア半島の南端にあり、大西洋から地中海の入り口を厄する要衝で、会場からの侵攻は極めて困難でした。親独ながら中立を堅持するスペインが参戦しない以上、攻略は不可能であるとして、作戦が実施に移されることはありませんでした。

シュトラント作戦

“シュトラント”とはドイツ語で”海岸”のこと。ドイツ空軍が1939年9月1日の戦争勃発と同時に計画していたポーランド首都ワルシャワへの集中爆撃作戦です。

この作戦は当日、濃い霧のため一旦中止されましたが、9月13日に実施されました。

ファル・ヴァイス作戦

“ファル・ヴァイス”とはドイツ語で”白の場合”という意味です。ドイツ軍によるポーランド侵攻作戦で第二次大戦開戦のキッカケになった作戦です。

【背景】ドイツ第三帝国相当アドルフ・ヒトラーはポーランド領によりドイツ本土から隔絶された東プロイセンをドイツ本国と陸続きにするため、ポーランドにバルト海岸岸地帯の割譲を要求した。

ポーランドはイギリス・フランスの後ろ盾を背景に要求を拒否したため1939年9月1日に、ドイツ軍56個師団が首都ワルシャワへ向けて挟み込む形で南北から侵攻した。

近代装備を有していないポーランド軍は大きな打撃を受け、更に9月17日にはソ連軍がポーランド領内へ侵攻し、東半分を制圧。9月27日にワルシャワが陥落し、ポーランドは1カ月で崩壊しました。

ハンマー作戦

“ハンマー”とは英語で”かなづち”のことです。イギリス軍によるノルウェーのトロンヘイム港攻撃作戦計画でした。本作戦はイギリス本国艦隊のほぼすべての艦船を投入しなければならなかったため、損害の
リスクを恐れて実施数日前に中止になりました。

フメル作戦

“フメル”とはドイツ語で”ロブスター”の事です。イギリス本土上陸作戦に際して、ドイツ国防総督がイギリスの内部情報を得ようとした諜報作戦でした。

この諜報戦の結果は十分ではなく、イギリス軍の実態を明確に把握できなかったため、本土上陸作戦(セーレーヴェ作戦)が強行されませんでした。

アルペンファイルヒェン作戦

”アルペンファイルヒェン”はドイツ語で”シクラメン”の事です。アルバニアからギリシャへ侵攻したが、敗退を続けるイタリア軍を支援するため、1940年に計画されたドイツ軍の作戦です。

この作戦は中止となりましたが、ソ連侵攻に先立つ1941年4月にギリシャへの侵攻が実施されました。

ジッヒェルシュニット作戦

“ジッヒェルシュニット”とはドイツ語で”鎌で刈る”という意味です。ドイツ軍によるフランス侵攻作戦。1940年に入るまでドイツと英仏の間に本格的な戦闘はありませんでしたが、ドイツ軍のノルウェー侵攻により両軍の直接対決は避けられない状態になりました。

ドイツ陸軍司令部は、第一次大戦における作戦の焼き直しであるファル・ゲルプ作戦を実施しようとしたが、1月に機密書類を所持したドイツ軍将校がベルギーに不時着するという「メヘレン事件」が起きました。

このため、作戦事態の見直しを余儀なく」され、このジッヒェルシュニット作戦が立案されます。ドイツ軍は西方国境に136個師団を展開し、英仏軍149個師団も対峙する形でベルギー国境沿いにかけて展開しドイツ軍の侵攻に備えました。

しかし、ドイツ軍は主力装甲部隊をベルギー南部に広がるアルデンヌの森に進めて、フランス軍の手薄なセダン方向に進撃した。

ベルギーやオランダ方面への進撃は、英仏軍の煽動であり、アルデンヌの森を抜けられないと見立てていた英仏軍はセダンからミューズ川へのドイツ軍の突破を許した。直ちに、転進しドイツ軍の侵攻を食い止めようとしたが、その進撃速度に追いつけなかった。

ドイツ軍装甲部隊はそのまま国境を突破し、20日にはダンケルクに英仏軍を包囲し、英仏軍はすべてを捨ててダンケルクから海路で英本土へ撤退した(⇒ダイナモ作戦)。

ダイナモ作戦

“ダイナモ”とは英語で”発電機”の事です。前述しましたが、イギリス陸軍大陸派遣軍は、一部のフランス軍と共にダンケルク付近で包囲され、降伏が時間の問題となり、イギリス海軍提督指揮のもと、イギリス本土への撤退を計画しました。これが本作戦です。

イギリス海峡には駆逐艦や商船約600隻が動員され、兵員を満載して、ダンケルクとイギリス本土を往復しました。港に接岸できない船舶には300隻以上のボートが海岸から兵員を搬送し、10代の海洋少年団員によって操縦されていました。

本作戦で30万以上のイギリス・フランス軍がイギリス本土への撤退に成功し、装備の大部分を失いましたが、人的資源を失わずに済み、後の反攻作戦を実行するための布石にもなりました。

ロート作戦

“ロート”とはドイツ語で”赤”の事です。ドイツ軍によるフランス侵攻作戦の第2段階。この攻勢でフランス首都パリが陥落し、フランスは降伏を余儀なくされました。

フランス北部を横断するように進撃して、英仏連合軍主力をダンケルクに包囲、撤退させたドイツ軍は、6月5日にフランス本土の南進を開始します。

すでに主力部隊の壊滅したフランス軍はこれまでの戦況から対戦車防御用の縦深陣地を構築し、残存兵力をもって必死の防戦を図りました。

しかし、ドイツ軍装甲兵力の進撃を食い止める事はできず、1940年6月10日に首都パリの無防備都市を宣言。14日にドイツがパリへ入城し、22日に休戦協定が成立しました。

ティーゲル作戦

“ティーゲル”とはドイツ語で”トラ”のことです。ドイツ軍によるマジノ線突破作戦。1940年5月のドイツ軍装甲部隊を中心とした電撃戦で、フランス北部戦線が崩壊したことに伴い、英仏国境沿いに構築されたマジノ戦から、フランス軍の大部分が西方へと移動しました。

これにより、難航不落といわれたマジノ線の戦力が手薄となり、6月13日にフランスが首都パリを放棄したタイミングでマジノ線に対して攻撃を開始。これを突破して、フランス残存部隊を包囲降伏させました。

カタパルト作戦

“カタパルト”とは英語で”投石機”のことです。イギリス軍によるメルセルケビール港攻撃作戦です。フランス軍はドイツ軍の電撃戦の前に降伏してしまいました。

しかし、戦艦7隻以上の大勢力を誇るフランス海軍は、ほぼ無傷で残っていました。ドイツ軍に降伏するのを潔しとしない艦艇の大部分は地中海を越えアフリカ沿岸のフランス領の港湾に脱出しました。

そのうち、最大の戦力が集結したのが、アルジェリアのメルセルケビール港でした。イギリス軍にとって、この艦艇の存在が不気味で、友軍としてなら力強い味方ですが、ドイツ・イタリア軍に吸収されることになれば、地中海の戦力バランスは大きく傾くことになります。

イギリス軍が下した判定は「敵になる前に撃破せよ」でした。イギリス軍はこの艦艇へ連合軍への参加を呼びかけましたが、フランス側はこれを拒否しました。

そのため、1940年7月3日にイギリス軍は砲撃を開始し、一方的に攻撃を加えました。短時間の戦闘で3隻の戦艦を撃沈、1隻のフランス戦艦のストラスブールのみがツーロンに向け脱出に成功しました。

アンバサダー作戦

“アンバサダー”とは英語で”使節”のことです。イギリス軍によるガーンジー島奇襲作戦です。ガーンジー島のあるチャネル諸島は英仏海峡に浮かぶ島々で、フランス敗北後にこの諸島の守備は困難と考えたイギリス軍は島民6000名以上を撤退させました。

ほどなくドイツ軍が上陸し、チャネル諸島は「ヨーロッパ地区でドイツ軍の占領を許した唯一のイギリス領」となります。

本作戦は、このチャネル諸島のガーンジー島に対する奇襲作戦で、実際には「いやがらせ」以外の目的はほとんどないものでした。ドイツ軍も同諸島占領も、宣伝以外の効果はほとんどない物でした。

ハリー作戦

“ハリー”とは英語で”緊急”のことです。イギリス海軍による、マルタ増援作戦、イギリス海軍は、地中海のマルタ島へ航空機増援のため、空母から陸上戦闘機を発進させてマルタ島の基地に直接着陸させる作戦をしばしば実行していました。

この作戦は、このような作戦のパイオニアと言えるものです。ジブラルタルを出港した空母アーガスは、マルタ島北方約320kmから戦闘機12機を発艦させました。イタリア軍との戦闘で1機失いましたが、11機は無事に島へ到着しました。

アドラー・アングリフ作戦

“アドラー・アングリフ”とはドイツ語で”鷲攻勢”という意味です。ドイツ空軍によるイギリス本土空爆作戦でした。

1940年6月のフランス降伏後、ドイツに立ち向かうのはイギリスただ一国となりました。ドイルのアドルフ・ヒトラー総統はイギリス本土攻略作戦ゼーレーヴェを実施しようとしましたが、ナチスドイツナンバー2であるドイツ空軍のヘルマン・ゲーリング国家元帥が「空軍だけでイギリスを屈服させる」tp豪語したためイギリス本土決戦は空軍力のみによる戦いとなりました。

ドイツの主力戦闘機メッサーシュミットの航続力不足、戦略爆撃機を持たない事による爆撃力不足、イギリス空軍の粘り強い防空戦、さらに無定見なドイツ空軍の戦略方式により、ついには空軍力だけでイギリスを屈服させることはできませんでした。

この結果、9月に予定していたセーレーヴェ作戦は無期延期。ヒトラーの興味がソ連侵攻へと移ったこともあり、本作戦自体うやむやに終わりました。

セーレーヴェ作戦

“セーレーヴェ”とはドイツ語で”あしか”のことです。ドイル軍による、イギリス本土上陸作戦。バトル・オブ・ブリテン(イギリス本土航空決戦)で制空権をつかむことができなかったため、本作戦は実施に移されることはなかった。

1940年7月16日、アドルフ・ヒトラー総統は英本土上陸作戦を指示したが、空軍力だけでイギリスの抵抗力を削ぐことができず、上陸の成否に疑問を持った陸海軍はヒトラーに作戦延期を要請。8月10日、9月17日と作戦は次々に延期となった。

10月12日にセーレーヴェ作戦は無期延期となり、1941年春にイギリス本土上陸の企画自体が完全に断念されました。

ハッツ作戦

“ハッツ”とは英語で”帽子”のことです。イギリス海軍による、エジプト増援作戦です。イギリス海軍は地中海艦隊とエジプトの防備強化のため、アレキサンドリアへの増援を決定しました。

戦艦ヴァリアントと空母イラストリアスを主力とする艦隊は、ジブラルタルから地中海の真ん中を突っ切りアレキサンドリアに到着しました。

イタリア海軍および空軍はなんら有効な攻撃を与えられないず、この増援でやってきた空母イラストリアスは、数カ月後のタラント奇襲でその威力を発揮することになります。

ブリッツ作戦

“ブリッツ”とはドイツ語で”稲妻”のことです。1940年9月から独ソ戦開始直前まで実施された、ドイツ空軍によるイギリス都市夜間爆撃作戦です。

心理的効果を狙って工業地帯から都市への戦略目標の変更でしたが、これによりイギリスは窮地を脱します。この作戦中に、電波による航路誘導と投弾地点指示が実用化されました。

メネス作戦

“メネス”とは英語で”脅迫”の意味です。イギリス海軍による、ダカール港攻撃作戦でした。イギリス海軍はフランス降伏後、メルセルケビール港のフランス艦隊を撃破した後、同様にフランス脱出艦隊が集結しているセネガルのダカール港に迫りました。

フランス艦隊は戦艦リシュリューと巡洋艦2隻が主力。イギリス軍は、戦艦バーラム、レゾリューション、空母アークロイヤルを中心として、連合軍への参加を呼び掛けましたが、ここでもフランス側は拒否の態度を示します。

ケビールでの戦闘情報がフランス側に届いていたこともあり、当然ともいえる反応でした。イギリス軍は9月23日攻撃を開始するが、フランス側の反撃にありイギリス軍は攻撃をあきらめて後退しました。

シルム作戦

“シルム”とはドイツ語で”傘”のことです。ドイツ空軍が実施したイギリス・バーミンガムの工業地帯に対する爆撃作戦でした。

ホワイト作戦

“ホワイト”とは英語で”白”のことです。イギリス海軍による、マルタ増援作戦。イギリス陸軍は北アフリカとギリシャでイタリア軍に大損害を与えて優位に立っていました。

ドイツ軍の地中海方面への進出の動きがあり、空母によるマルタ島への戦闘機輸送を実施します。しかし、本作戦は荒天に妨げられてしまい、14機の戦闘機のうち、5機しかマルタ島へ送ることができませんでした。

ジャッジメント作戦

“ジャッジメント”とは英語で”審判”のことです。イギリス海軍による、イタリア海軍の根拠地タイラント軍港への奇襲作戦です。

イギリス海軍地中海艦隊司令官アンドリュー・カニンガム中将は、優勢なイタリア海軍の脅威を取り除くため、イタリア海軍の主力がタラント軍港に停泊している時を見計らい、空母艦載機による奇襲を計画しました。

1940年9月までに、イギリス本国から、新鋭空母イラストリアスとソードフィッシュ艦上攻撃機の航続距離を延ばすドロップタンク(飛行中投棄可能な燃料タンク)が到着し、作戦は現実のものになりました。

当初、攻撃は空母イラストリアスとイーグルの故障により、イラストリアスのみで、21機で攻撃を行ったに過ぎない作戦になりました。

しかし、わずかな艦攻の挙げた戦果はめざましく、新鋭戦艦リットリオを含む戦艦3隻が沈没しました。この作戦が日本海軍の真珠湾奇襲のモデルになったとも言われています。

カラー作戦

“カラー”とは英語で”首輪”のことです。イギリス海軍による、エジプト増援作戦。イギリス海軍は、ジブラルタルから、マルタやアレキサンドリアへ数次に渡って地中海を突っ切って増援を送りましたがイタリア海軍は成す術もありませんでした。

本作戦でも、高速輸送船3隻がマルタおよびアレキサンドリアに向かいましたがなんの障害もありませんでした。

コンパス作戦

“コンパス”とは英語で”羅針盤”のことです。本作戦はイギリス軍によるイタリア軍への反撃作戦でした。

まとめ

最後までご精読ありがとうございました。無駄にかっこいい作戦名の数々いかがだったでしょうか?人名や精霊、モノや事象を作戦名に仕立てて、士気を上げたり、目的を一言で抽象する作戦がとても多いです。

今後もリサーチした歴史上の作戦をピックアップして増やしていきたいと思います。それでは本日はこれで失礼致します!